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豊臣家
豊臣(羽柴)秀吉 とよとみ(はしば)ひでよし (1537~1598) 豊臣家
戦国一の出世頭。三英傑のひとり。幼名は日吉丸。低い身分の家柄で、はじめは木下藤吉郎と名乗り、今川家臣・松下之綱や川並衆のひとり・蜂須賀小六(正勝)に仕えていたといわれる。その後、織田信長に仕えて頭角を現し、「人たらし」とも称される人心掌握術で竹中半兵衛(重治)や黒田官兵衛(孝高)など有能な人材を多く集め、織田家中では新参者でありながら中国方面軍の総大将まで出世した。本能寺の変の時は、毛利方の備中高松城を水攻めにしていたが、すぐさま毛利家と和睦、のちに「中国大返し」と呼ばれる強行軍で上方に取って返し、山崎の戦いで明智光秀を破った。主君の仇をとったことで、清須会議でも主導権を握って事を有利に進め、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破り、小牧・長久手の戦い後には徳川家康を臣従させて中央での勢力を確固たるものにした。その後、四国征伐、九州征伐、小田原征伐、奥州仕置を経て天下統一を成し遂げる。天下統一後、太閤検地や刀狩令など全国に及ぶ政策を行って国内を安定させるが、千利休の切腹事件や跡継ぎになかなか恵まれなかったことで起きた関白秀次事件、そして朝鮮出兵などの強行策で豊臣家と諸大名が疎遠になるきっかけを作ってしまい、死後、そこにつけ込んだ徳川家康によって豊臣政権は短命に終わってしまった。
<辞世の句>
露とおち 露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢
豊臣(羽柴)秀次 とよとみ(はしば)ひでつぐ (1568~1595) 豊臣家
秀吉の姉・日秀尼の子。秀吉の甥にあたり、弟に小吉秀勝、秀保がいる。武将としては凡庸で、総大将をつとめた小牧・長久手の戦いでは、三河への中入りに失敗して徳川家康に惨敗、池田恒興、森長可を討死させてしまった。その後の四国征伐では叔父・秀長の副将として参加、その功で近江八幡43万石の大名となり、城下町の整備に尽力する。秀吉の最初の子・鶴松が亡くなると、秀吉の養子となって関白職を継ぐが、お拾(のちの秀頼)が生まれると次第に疎んじられ、最後は謀反の嫌疑をきせられて切腹、一族郎党もことごとく処刑された。
豊臣(羽柴小吉)秀勝 とよとみ(はしば しょうきち)ひでかつ (1569~1592) 豊臣家
秀吉の姉・日秀尼の子。秀吉の甥にあたり、兄に秀次、弟に秀保がいる。秀吉の養子となった織田信長の四男・於次秀勝と区別するため、小吉秀勝と呼ばれる。正室にお江(浅井長政三女)を迎えているが、時期については諸説ある。秀吉の数少ない一族の将として、九州征伐、小田原征伐に参加して経験を積むが、文禄の役で病を得て朝鮮で亡くなった。正室のお江は、その後、徳川秀忠に再嫁した。
豊臣(羽柴)秀保 とよとみ(はしば)ひでやす (1579~1595) 豊臣家
秀吉の姉・日秀尼の子。秀吉の甥にあたり、兄に秀次、小吉秀勝がいる。1591年、13歳のときに病床についた秀吉の異母弟・秀長の娘を娶り跡継ぎとなった。秀長が亡くなると藤堂高虎、桑山重晴の後見を得て秀長の領地のうち和泉と伊賀の一部は収公となったものの大和、紀伊の2ヶ国の国主となり92年には権中納言に昇進した。若年ながら諸大名では徳川家康に次ぐ立場となったが、95年に17歳の若さで急死し大和豊臣家は断絶した。
豊臣(羽柴)秀長 とよとみ(はしば)ひでなが (1540~1591) 豊臣家
秀吉の異父弟。秀吉の天下統一を陰で支えた一番の功労者。豊臣政権の宰相ともいうべき立場だった人物。冷静沈着で人柄もよく、諸大名の信頼も厚かった。有能で個性的な人材が多い家中をよくまとめ、四国征伐では病気で出陣できなかった秀吉に代わって総大将を、九州征伐でも日向方面の総大将をつとめた。最終的に大和、紀伊、和泉、伊賀の一部を合わせて110万石の大大名となり、官位も権大納言を叙任されるまでに至ったが、小田原征伐直前に病を発し、1591年に亡くなった。絶大な権力を手にした秀吉を諫めることができる唯一といっていい存在であったため、秀長の死後に起きた千利休の切腹、関白秀次事件、文禄の役、慶長の役など、諸大名が豊臣家と疎遠となるきっかけとなった秀吉の行動を誰も止めることができず、豊臣政権は短命になったといわれる。
豊臣秀頼 とよとみ ひでより (1593~1615) 豊臣家
秀吉の子。母は織田信長の姪で側室の茶々(のちの淀殿)。秀吉の晩年にできた子であったため、幼くして家督を継いだ。関ヶ原の戦い後、実権を握った徳川家との繋がりを強めるために家康の孫娘・千姫を正室に迎える。その後、成人して右大臣となるが、関白にはなれず、さらに家康は実権を返すことなく将軍職を秀忠に譲って豊臣家をないがしろにし始めたため大坂の陣を引き起こす。しかし、豊臣家に味方したものは浪人衆ばかりで、有力大名の助力は得られず、最後は炎に包まれた大坂城の中で母・淀殿と共に自害し、豊臣家は滅亡した。
羽柴(於次)秀勝 はしば(おつぎ)ひでかつ (1568~1586) 豊臣家
織田信長の四男。同名である秀吉の甥・小吉秀勝と区別するため於次秀勝と呼ばれる。跡継ぎに恵まれない秀吉の養子となった。一説には秀吉の正室・おねが信長に願い出たともいう。中国征伐で初陣を果たし、本能寺の変で信長が明智光秀に殺されると、織田信孝(信長三男)と共に弔い合戦の旗頭となって山崎の戦いに参加し、その後の賤ヶ岳の戦いにも参加した。1584年の小牧長久手の戦いの最中に病を発し、療養につとめたが86年に丹波亀山城で亡くなった。
小早川秀秋 こばやかわ ひであき (1582~1602) 豊臣家
秀吉の正室・高台院の甥。豊臣秀次に次ぐ秀吉の後継者候補だったが、秀頼が生まれたことで立場が曖昧になった。はじめ、毛利輝元の養子となる案が出されたが、毛利家臣・小早川隆景の強い申し出により隆景の養子となり小早川家を継いだ。これは、隆景が秀秋の器量に疑問を持ち、毛利宗家を守るために行ったものだといわれている。関ヶ原の戦いでは西軍についていたが、本戦では東軍に寝返り、東軍勝利を決定づけた。戦後、55万石の大領を得るが、2年後に21歳の若さで急死した。関ヶ原で自害に追い込まれた大谷吉継の祟りで狂乱死したという逸話がある。
青木一矩 あおき かずのり (?~1600) 豊臣家
豊臣家臣。母は、豊臣秀吉の生母・大政所の妹で、秀吉の従兄弟といわれている。はじめは、秀吉の異父弟・秀長に仕え、賤ヶ岳の戦いなどで活躍、秀長の家臣団では筆頭の立場にあった。のちに秀吉の直臣となり、小田原征伐や文禄の役、伏見城の普請などに参加した。1598年に秀吉が亡くなると、その遺命として北ノ庄20万石を拝領する。関ヶ原の戦いでは西軍に属したが、病床で戦場には出れず、西軍の敗北後すぐに亡くなり、青木家は改易となった。
浅野長政 あさの ながまさ (1547~1611) 豊臣家
豊臣政権下の五奉行筆頭。安井重継の子。織田家の弓衆だった母方の叔父・浅野長勝に男子がいなかったため、長勝の娘・彌々(やや)の婿養子として迎えられ浅野家を継いだ。長勝には彌々のほかに養女として秀吉の正室となったおね(のちの高台院)がおり(彌々も養女でおねとは実の姉妹とも)、おねの義弟にあたるということで、早くから秀吉の与力となって太閤検地を実施するなど、優れた行政手腕で秀吉の天下統一に貢献した。加藤光泰が文禄の役の最中に病没すると、その遺領である甲斐国府中21万5千石を受け継ぎ、同時に東国大名の取次役となった。秀吉が亡くなると、徳川家康暗殺の嫌疑をかけられ、家督を子の幸長に譲って隠居する。関ヶ原の戦いでは家康を支持し、戦後は家康に近侍した。その後、常陸国真壁に5万石の隠居領をもらい、1611年に同地で没した。
石田三成 いしだ みつなり (1560~1600) 豊臣家
近江の国人・石田正継の二男。豊臣政権下の五奉行のひとり。秀吉との出会いの逸話「三杯の茶」が有名で、秀吉が長浜城主になった頃から仕え始めたとされる。秀吉の中国攻めに従軍したあたりから頭角を現し始め、秀吉の弟・秀長や蜂須賀小六(正勝)らが亡くなると側近中の側近として政務を担当した。小田原征伐や朝鮮出兵では十万単位の軍勢の進軍と兵站の維持を円滑に行うなど管理運用面で抜群の働きをするが、実戦は不得意であったといわれ、その根拠として小田原征伐の忍城攻めの失敗がよく挙げられる。秀吉の死後、天下簒奪をねらう徳川家康と対立し、両軍合わせて約15万が激突する関ヶ原の戦いを演出する。しかし、軍勢の統制に精彩を欠き、たった1日で敗北。再起を図って戦場から逃亡するも田中吉政の軍勢に捕らえられ、小西行長、安国事恵瓊らと共に京都六条河原で処刑された。
<辞世の句>
築摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり
島左近 しま さこん (1540~1600) 石田家
大和の国人。諱は清興。勝猛の名で呼ばれることもある。初めは筒井順慶に仕え、松倉右近(重信)と並び「筒井の右近左近」と呼ばれて重責を担っていたが、順慶の死後に家督を継いだ定次とは不和になり浪人した。その後、蒲生氏郷、豊臣秀長・秀保親子に仕え、秀保死後は左近の勇猛さを聞きつけた石田三成に高禄で召し抱えられた。実戦が不得意であったといわれる三成を軍事面で支え、関ヶ原の戦いでは前哨戦である杭瀬川の戦いに勝利するなど活躍したが、本戦で黒田長政、細川忠興、加藤嘉明の軍勢相手に鬼神の如き働きを見せるも壮絶な討死を遂げた。その奮戦ぶりを見た東軍諸将の中には戦後も左近の影に怯える者がいたといわれる。
<巷の話より>
「三成に過ぎたるもの二つあり 島の左近に佐和山の城」
蒲生頼郷 がもう よりさと (?~1600) 石田家
初名は横山喜内。六角家に仕えていたが、六角家が織田信長によって滅ぼされると蒲生家に仕えた。勇将として知られ、蒲生賢秀・氏郷親子のもとで活躍して高禄を得るが、氏郷の死後、跡を継いだ秀行が減封されると浪人し、のちに石田三成に請われて麾下に入った。島左近(左近)と共に三成を軍事面で支え、関ヶ原の戦いでは織田長益(有楽斎)を負傷させるなど奮戦するが、討死した。
宇喜多秀家 うきた ひでいえ (1572~1655) 豊臣家
宇喜多直家の子。豊臣政権下の五大老のひとり。父の死によりわずか10歳で家督を継いだ。秀吉のお気に入りで、秀吉の養女となっていた豪姫(前田利家息女)を娶り、一門衆の扱いを受けた。紀州征伐、四国征伐、九州征伐、小田原征伐に参加、文禄の役では総大将をつとめた。秀吉の死後、側近の中村次郎兵衛の専横をめぐって家臣らと対立した宇喜多騒動を起こし、結果、多くの家臣が出奔して宇喜多家の弱体を招いた。関ヶ原の戦いでは1万6千の兵を率いて奮戦するが、敗れて島津家に身を寄せる。数年後、噂が広まったため、やむなく出頭、島津忠恒、前田利長らの助命嘆願で死罪は免れたが、八丈島へ流された。島では苦労が多かったようだが、84年の天寿を全うした。
明石全登 あかし てるずみ (1551~?) 宇喜多家
宇喜多家臣。名前の読み方は「てるずみ」の他に「ぜんとう」「たけのり」がある。大坂城五人衆のひとり。キリシタンとしても知られる。1599年の宇喜多騒動で、家中から多くの重臣が出奔すると、家宰となり、軍事だけでなく政務でも中心的な役割を担った。関ヶ原の戦いでは先鋒をつとめて、福島正則と激戦を繰り広げる。敗戦後、黒田如水(官兵衛)の母が明石一族であったことから黒田家を頼り、その後は柳川藩の田中家を頼ったとされる。徳川家と豊臣家の関係が悪化すると、豊臣秀頼の求めに応じて大坂城に入り、夏の陣ではキリシタンの部隊を率いて奮戦した。大坂方の敗戦が濃厚になると、敵の囲みを突破し、以後は消息不明となる。
大谷吉継 おおたに よしつぐ (1559~1600) 豊臣家
豊臣家臣。大谷刑部の呼び名でも知られ、石田三成の親友としても有名。秀吉に仕えるまでの経緯には諸説あるが、近江国出身で秀吉が長浜城主になった頃に仕えたといわれる。武略に優れ、賤ヶ岳の戦いでは、福島正則、加藤清正ら七本槍に匹敵する武功を挙げたが、しばらくして難病を得てしまい、活躍の場は前線から奉行職へと移る。吏務の才にも長けていた吉継は、石田三成と共に重用されるが、三成と違って前線への配慮を怠らなかったため、武断派の武将からの人望も得ていたという。秀吉死後は、徳川家康に接近するが、三成に家康打倒を打ち明けられると、最初は諫めるも、最後は毛利輝元を総大将に据えるなど、いくつかの条件を出して賛同した。関ヶ原の戦いでは東軍に寝返った小早川秀秋の大軍をわずかな兵で2度まで押し返す活躍をするが、最後は力尽き自害した。
大野治長 おおの はるなが (1570~1615) 豊臣家
豊臣家臣。母・大蔵卿局が秀吉の側室・淀殿の乳母であったことから秀吉に召し出されて家臣となった。秀吉の死後、徳川家康暗殺の嫌疑をかけられて下総に流されるが、関ヶ原の戦いで東軍に属して罪を許され、豊臣秀頼に仕えた。徳川家と豊臣家の緊張が高まり、片桐且元が内通の疑いで大坂城を去ると指導者的な立場となり、浪人を募って大坂の陣を引き起こした。敗色が濃くなると、家康の孫娘で秀頼の正室・千姫を通じて秀頼親子の助命を願い出るがかなわず、秀頼と共に自害した。
大野治房 おおの はるふさ (?~?) 豊臣家
豊臣家臣。治長の弟。幼少より豊臣秀頼に仕えた。大坂の陣では豊臣方の主要な武将のひとりとして参加。冬の陣では徳川方の蜂須賀至鎮の陣を塙団右衛門と夜襲して戦果を挙げた。だが、夏の陣では3千の兵を率いて浅野長晟と戦うも樫井の戦いで破れ、天王寺・岡山の戦いではたいした活躍もできず敗北して大坂城が落城すると逃亡した。その後の消息は諸説あり、土民に殺害されたとも捕らえられて処刑されたともいわれる。
糟屋武則 かすや たけのり (1562~1607) 豊臣家
豊臣家臣。賤ヶ岳の戦いの戦いで活躍した七本槍のひとり。加須屋真雄など別名が多く存在する。播磨国出身で、初めは三木城主・別所長治に従っていたが、黒田孝高(官兵衛)の説得と推挙によって秀吉に仕えることになった。関ヶ原の戦いでは西軍につき伏見城攻めに参加、本戦では宇喜多秀家の軍勢に属して戦ったという。しかし、西軍は敗北、そのため戦後に改易となった。その後は幕臣になったとも伝わるが、諸説あって定かではない。
片桐且元 かたぎり かつもと (1556~1615) 豊臣家
豊臣家臣。賤ヶ岳の戦いで活躍した七本槍のひとり。近江国出身で秀吉の長浜城主時代に仕え始める。主に奉行として活躍し、秀吉の子・秀頼の傅役に抜擢された。関ヶ原の戦いでは西軍について大津城攻めに家臣を派遣するが、西軍敗北後は長女を人質に出して秀頼と徳川家との調停に奔走した。しかし、1614年の方広寺鐘名事件で徳川家との内通を疑われ大坂城を退去。これがきっかけで大坂冬の陣が始まり、徳川方の先鋒として大坂城を攻めた。翌15年の夏の陣にも参加するが、すでに肺を患っており、大坂城落城後まもなくして病没した。
加藤清正 かとう きよまさ (1562~1611) 豊臣家
豊臣家臣。豊臣秀吉子飼いの武将で秀吉の縁戚にあたる。賤ヶ岳の戦いで活躍した七本槍のひとり。武断派七将のひとりでもある。朝鮮出兵の際の虎退治の逸話でも有名。熊本城、名古屋城、江戸城などに携わった築城の名手としても知られる。秀吉が長浜城主になったばかりのころから小姓として仕え始める。中国攻め以降、秀吉の主だった戦にはほとんど参戦し、九州征伐後、佐々成政が失政により改易となると、その後任として肥後北半国19万5千石の領主となった。その後、朝鮮出兵に参加。文禄の役では朝鮮の二王子を捕虜にし、慶長の役では明・朝鮮連合軍を蔚山城の戦いで破る活躍をした。関ヶ原の戦いでは東軍に属して九州の西軍勢力と戦い、小西行長の宇土城、立花宗茂の柳川城を開城させ、戦後、肥後一国52万石を得る。その後は豊臣家のために尽力し、1611年に徳川家康と豊臣秀頼の会見を二条城で実現させるが、帰国途中に発病して熊本で亡くなった。
加藤光泰 かとう みつやす (1537~1593) 豊臣家
豊臣家臣。もとは美濃斎藤家の家臣。斎藤家滅亡後、浪人生活を経て羽柴(豊臣)秀吉の家臣となった。秀吉の主だった戦に多く参加、山崎の戦いでは明智勢総崩れのきっかけとなる側面攻撃を与え、その功で丹波国に1万5千石の領地を得た。その後、一時不興をかうこともあったが、小田原征伐後に羽柴秀勝に代わって甲斐24万石の大名に抜擢され、関東移封となった徳川家康の抑えとなった。しかし、自ら願い出て参加した文禄の役で病を得てしまい、遠く朝鮮の地で亡くなった。
加藤嘉明 かとう よしあき (1563~1631) 豊臣家
豊臣家臣。賤ヶ岳の戦いの戦いで活躍した七本槍のひとり。武断派七将のひとりでもある。父は徳川家臣だったが、三河一向一揆に加わって出奔したため、嘉明も浪人した。流れ着いた近江で馬の行商をしていた時に羽柴(豊臣)秀吉に見い出され、羽柴秀勝(信長の四男、秀吉の養嗣子)の小姓として仕え始める。中国攻めの時に秀吉の直臣となり、秀吉が中央を制覇するまでの主だった戦にはほとんど参加して、四国征伐後に淡路国内に1万5千石を得た。その後、淡路水軍を率いて九州征伐、小田原征伐、朝鮮出兵でも活躍し、伊予正木10万石を得る。関ヶ原の戦いでは東軍に属して石田三成本隊と戦った。戦後、加増されて20万石の大名となると、本拠を勝山に移し、地名を松山と改名して松山城の築城にとりかかった。1627年、蒲生家が減封となり、松山に移ることになると、入れ替えで会津藩43万5千石の藩主に抜擢された。
佃十成 つくだ かずなり (1553~1634) 加藤家
加藤嘉明の家老。三河国の出身で織田信長、次いで徳川家康に仕えるが、些細なことで国を追われ、のちに嘉明に請われ家臣となった。九州征伐、小田原征伐、朝鮮出兵で活躍し家老となる。関ヶ原の戦いでは、嘉明の留守を預かり、攻めてきた毛利方・村上水軍の頭領・村上元吉(武吉嫡男)を討ち取った。戦後は松山城の築城にも携わった。
塙団右衛門 ばん だんえもん (1567~1615) 加藤家
加藤嘉明に仕えた鉄砲大将。諱は直之。団右衛門の名でも知られる。尾張国の出身といわれるが嘉明に仕える前の経緯には諸説あって定かではない。嘉明のもと文禄の役で戦功を挙げるが、関ヶ原の戦いでの命令違反がきっかけで出奔した。出奔後、小早川秀秋、松平忠吉に仕えるが両者とも仕えてから数年で亡くなってしまい家が断絶すると浪人した。嘉明の妨害もあって、その後は仕官が叶わず出家する。大坂の陣が始まると還俗して、より出世が望める豊臣方で参加。冬の陣では夜襲をしかけて活躍するが夏の陣で浅野軍と戦い討死した。
木村重成 きむら しげなり (1593?~1615) 豊臣家
豊臣家臣。木村重茲の子。父・重茲は秀次事件で連座して切腹となったが、まだ幼少であったため助命された。その後、母・宮内卿局が豊臣秀頼の乳母をつとめたため、秀頼の小姓として仕え始める。美男子と伝わり、礼儀正しく、武芸にも秀でており、大坂冬の陣では後藤基次と共に佐竹義宣や上杉景勝と戦い善戦した。冬の陣は最終的に和議が結ばれるが、その際、秀頼の正使として徳川秀忠の誓紙を受けとった。夏の陣では、藤堂高虎、井伊直孝と激戦を繰り広げたが、最後は井伊勢に突撃して討死した。首を取られたとき、見苦しくないように頭髪に香を焚いて出陣していたという。
木村吉清 きむら よしきよ (?~1598) 豊臣家
豊臣家臣。はじめは荒木村重に仕え、のちに明智光秀に仕えた。山崎の戦い後に豊臣家臣となり、奥州仕置で活躍。仕置後、改易となった葛西、大崎両家の旧領30万石を与えられ蒲生氏郷の与力大名となる。しかし、圧政を行ったため、葛西、大崎家の旧臣らに大規模な一揆(葛西大崎一揆)を起こされ、その責で改易となった。その後、蒲生氏郷の客将となり、氏郷死後、蒲生家が減封となると豊後国に1万5千石を与えられた。
小西行長 こにし ゆきなが (1559~1600) 豊臣家
豊臣家臣。堺の豪商・小西隆佐の子。熱心なキリシタンとしても知られる。備前国福岡の豪商へ養子に出され、その後、宇喜多直家に仕えたが、使者として秀吉と会見した際にその才覚を気に入られて秀吉の家臣となった。九州征伐で肥後国人一揆の討伐で功があり、肥後南半国24万石を与えられる。文禄の役では先鋒として奮戦したが、戦況が怪しくなると、秀吉の意向に添わない内容で勝手に和睦を進めたため怒りを買う。その汚名をそそぐために慶長の役にも参加するが、秀吉の死により帰国した。関ヶ原の戦いでは西軍に属して田中吉政らと戦うが敗れて潰走。伊吹山中に逃げ込み、関ヶ原の庄屋に匿わていたが、キリシタンは自害を禁止されていたため、自首して石田三成、安国事恵瓊らと共に六条河原で処刑された。
薄田兼相 すすきだ かねすけ (?~1615) 豊臣家
豊臣家臣。通称は隼人正。狒狒(ひひ)退治の講談に出てくる豪傑・岩見重太郎と同一人物といわれる。豊臣秀吉に馬廻り衆として仕え、秀吉死後は秀頼に仕えて大坂の陣に参加した。冬の陣では剛勇を見込まれて砦の守将を任されたが、遊女屋に行っている間に砦を落とされ「橙武者」と揶揄された(橙は正月の飾りでしか役に立たないという意味合いから)。汚名を注ぐべく夏の陣では道明寺の戦いで三尺三寸の大刀を振るって十騎ばかりを討ち取る勇猛さを見せつけたが討死した。
竹中半兵衛 たけなか はんべえ (1544~1579) 豊臣家
豊臣家臣。秀吉の軍師で諱は重治。黒田官兵衛(孝高)と共に秀吉の「二兵衛」「両兵衛」とも称された。はじめは美濃斎藤家に仕え、主君・龍興が酒色に溺れ政務を怠ると、16人の手勢で稲葉山城を乗っ取って諫めたという(最近では舅・安藤守就を主犯とする謀反の類で、思ったより賛同者が少なかったため、城を返還したといわれる)。秀吉の与力となってからは主に調略活動で活躍する。同じ軍師の官兵衛との仲は良好で、荒木村重が謀反を起こした時、説得に向かった官兵衛が囚われ、これを裏切りと見た織田信長が官兵衛の嫡男・松寿丸(のちの黒田長政)の処刑を命じるが、密かに松寿丸を匿って命を救っている。1579年、三木城攻めの最中に病に倒れ、秀吉からは養生するよう言われるが、死期を悟った半兵衛は武人として死ぬことを望み、秀吉本陣に戻って陣中で没した。三国志の名軍師・諸葛孔明にも例えられ、「半兵衛を失ったことは、蜀が孔明を失ったのに等しい」といわれた。
戸田勝隆 とだ かつたか (?~1594) 豊臣家
豊臣家臣。弟に勝成がいる。はじめは織田信長に仕えたが、羽柴(豊臣)秀吉の家臣となり黄母衣衆の筆頭に選ばれた。勇将として名を馳せ、小牧長久手の戦い、四国征伐、九州征伐に参加して武功を挙げ伊予宇和郡板島7万石を拝領した。その後、小田原征伐を経て文禄の役にも参加。渡海して活躍したが在陣中に病を発し、帰朝の途中で亡くなった。跡取りに恵まれず戸田家は断絶した。
富田一白 とみた いっぱく (?~1599) 豊臣家
豊臣家臣。近江国の出身。若い頃は織田信長に仕え、本能寺の変後に羽柴(豊臣)秀吉の家臣となった。主に奉行として活躍し、小牧長久手の戦いで織田信雄、徳川家康との和睦交渉を担当したのをはじめ、小田原征伐のきっかけとなった北条氏政・氏直との名胡桃城問題、奥州仕置きでの伊達政宗との交渉も担当した。秀次事件では一時蟄居となった浅野長政の代役をつとめ、それらの功で伊勢安濃津6万石の大名となった。
長束正家 なつか まさいえ (1556~1600) 豊臣家
豊臣家臣。豊臣政権下の五奉行のひとり。正室は本多忠勝の妹。生まれは近江国とも尾張国ともいわれる。丹羽長秀の家臣だったが、高い算術能力を買われて羽柴(豊臣)秀吉の家臣となり、財政を担当した。小田原征伐や文禄・慶長の役では兵糧奉行もつとめている。関ヶ原の戦いでは西軍に属して南宮山に布陣するが、吉川広家の妨害にあって戦いに参加できず撤退した。戦後、近江国水口岡山城に籠るが、城を包囲され、降伏開城したところを捕らえられて切腹させられた。
蜂須賀小六 はちすか ころく (1526~1586) 豊臣家
豊臣家臣。諱は正勝。木曽川河口付近を本拠にしていた川並衆のひとり。豊臣秀吉が織田信長に仕える以前、木下藤吉郎と名乗っていたころに世話をしていたといわれる。秀吉が信長に仕官したのち、美濃攻略のために秀吉が築いた墨俣一夜城の築城に深く携わったことでも有名。墨俣城築城後も秀吉の与力として活躍し、秀吉が長浜城主となると直臣となった。羽柴(豊臣)秀長(秀吉の弟)と並ぶ最古参の参謀として、石田三成や福島正則、加藤清正ら七本槍が登場するまで秀吉軍の中核を担い、秀吉の天下統一の足掛かりをつくるのに貢献した。四国征伐後、正勝には阿波一国が与えられる予定であったが、老齢であったことから領地は子の家政に与えられ、自身は秀吉の側近として仕えた。1586年に入ると病で伏せることが多くなり、まもなくして亡くなった。
一柳直末 ひとつやなぎ なおすえ (1546~1590) 豊臣家
豊臣家臣。美濃の土豪出身。織田信長の美濃攻略後に羽柴(豊臣)秀吉の家臣となって各地を転戦し、秀吉の黄母衣衆となる。小牧・長久手の戦い後、堀尾吉晴、中村一氏、山内一豊らと共に豊臣秀次の宿老となって美濃・大垣3万石を得た。その後、さらに3万石を加増されて美濃・軽海西城主となり、6万石を領したが、1590年に参加した小田原征伐の伊豆国山中城攻めで討死した。家督は弟・直盛が継いだ。
平塚為広 ひらつか ためひろ (1566~1600) 豊臣家
豊臣家臣。秀吉の馬廻として仕え、小牧・長久手の戦い、小田原征伐などで活躍した。秀吉の死後、徳川家康に対して石田三成が挙兵しようとすると、大谷吉継の名代として三成を諫めるが聞き入れてもらえず、吉継による説得も失敗に終わると吉継と共に西軍につくことを決心した。関ヶ原本戦では、大谷隊に属して、病が重くなっていた吉継の代わりに実戦指揮をとっていたといわれる。裏切った小早川秀秋の大軍勢を相手に数度押し返す働きをするが、脇坂安治ら諸将の裏切りが相次ぐと、力尽き討死した。
平野長泰 ひらの ながやす (1559~1628) 豊臣家
豊臣家臣。賤ヶ岳の戦いで活躍した七本槍のひとり。父が秀吉に仕えていたので、若くして秀吉に仕えた。賤ヶ岳の戦い以外では、小牧・長久手の戦いで奮戦したと伝わる。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、徳川秀忠に従って中山道を進んでいたため、本戦には間に合わず、大きな手柄はない。大坂の陣では豊臣方につこうとするが、家康の許しを得られず江戸留守居役を命じられた。その後は旗本として3代将軍・家光の時代まで生きた。
福島正則 ふくしま まさのり (1561~1624) 豊臣家
豊臣家臣。秀吉子飼いの武将で秀吉の縁戚にあたる。賤ヶ岳の戦いで活躍した七本槍の筆頭として有名。武断派七将のひとりでもある。播磨三木城攻めで初陣を果たして以来、秀吉の主だった戦のほとんどに参加し、九州征伐後に伊予今治11万石を得た。朝鮮出兵では文禄の役のみ渡海している。1595年の関白秀次事件では、豊臣秀次に切腹を命じる役をつとめ、秀次の死後、秀次の領地だった尾張清州24万石の領主となる。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、石田三成挙兵の報を受けて開かれた小山評定で、いち早く家康に味方することを誓約して他の諸将がそれに続くかたちをつくった。本戦では6千の兵で1万6千の宇喜多秀家と互角に戦い、戦後、安芸広島49万8千石を得る。その後は加藤清正と共に豊臣家のために尽力するが、1619年に無許可で城を修繕したことが武家諸法度に違反するとして信濃川中島4万5千石に減封され同地で没した。
可児才蔵 かに さいぞう (1554~1613) 福島家
宝蔵院流槍術の名手で諱は吉長。美濃斎藤家に仕えていたが、織田信長によって斎藤家が滅ぶと、柴田勝家、明智光秀、羽柴秀次(当時は三好秀次)、前田利家らに仕えた。明智光秀の時代には山崎の戦い、羽柴秀次の時代には小牧・長久手の戦いに参加しているが、どちらも敗北の憂き目にあっている。多くの主君に仕えたが、どの家も長続きはせず、最後は福島正則の家臣となった。福島軍の先鋒隊長として活躍し、関ヶ原の戦いでは、討ち取った敵の口に笹をくわえさせて目印としたため、「笹の才蔵」の異名をとった。
福原長堯 ふくはら ながたか (?~1600) 豊臣家
播磨赤松家の一族。石田三成の妹婿。豊臣秀吉の小姓頭衆の一人として仕え、のちに馬廻衆となった。九州征伐では根城坂の戦いで活躍した。その後、文禄・慶長の役に参加。慶長の役では軍目付をつとめたが、秀吉に事細かく事態を報告したことが、のちの文治派と武断派の対立を招いた。関ヶ原の戦いでは西軍に属して大垣城を守備したが、本戦で西軍が敗北すると降伏開城し蟄居した。しかし、武断派の恨みを買い過ぎていたため最後は自害させられた。
前田玄以 まえだ げんい (1539~1602) 豊臣家
豊臣政権下の五奉行のひとり。比叡山の僧だったが、織田信長に招聘されて家臣となり、信長の嫡男・織田信忠付となった。本能寺の変では、信忠の命で脱出し、信忠の嫡男・三法師(のちの秀信)を岐阜から清州へ移した。その後、信長の次男・信雄に仕え京都所司代に任じられる。羽柴(豊臣)秀吉の勢力が増してくると、秀吉の家臣となり、引き続き京都所司代をつとめ、後陽成天皇の聚楽第行幸の奉行もつとめた。関ヶ原の戦いでは、大坂城に留まり、西軍に属しながらも協力は最低限に抑え、ほぼ中立を保った。戦後、その働きが認められ、所領は安堵されている。
前野長康 まえの ながやす (1528~1595) 豊臣家
豊臣家臣。早い段階から羽柴(豊臣)秀吉に仕え、蜂須賀正勝と共に墨俣一夜城の築城で活躍したといわれる。正勝とは義兄弟の契りを結んでおり、秀吉の最古参の一人として秀吉の天下取りに至る多くの戦で武功を挙げ、但馬国出石五万三千石を与えられた。その後、文禄の役に参加し、十一万石に加増され、豊臣秀次の宿老となったが、秀次事件に連座して切腹させられた。
増田長盛 ました ながもり (1545~1615) 豊臣家
豊臣政権下の五奉行のひとり。秀吉に仕えるまでの経緯はよく分かっていないが、秀吉が長浜城主になった頃に召し出されたといわれる。中国攻め、小牧・長久手の戦い、小田原征伐、文禄の役など多くの戦いに参加する一方で、石田三成や長束正家らと共に奉行として太閤検地の実施でも活躍した。関ヶ原の戦いでは西軍に属しながら徳川家康に内通して西軍の様子を伝えていたが、露骨なやり方が家康の癇に障ったのか戦後改易される。1615年、大坂の陣で子の盛次が豊臣方についた責任を問われ切腹を命じられた。
松下之綱 まつした ゆきつな (1537~1598) 豊臣家
遠江・頭陀寺城主。今川家臣・飯尾連竜の寄子(家臣)で、豊臣秀吉が織田信長に仕える以前、木下藤吉郎と名乗り始めた頃に奉公していたという人物(諸説あり)。秀吉は、之綱から武芸・学問・兵法などを学んだといわれる。今川家が滅亡したのちは徳川家康に仕えたが、秀吉が長浜城主になると、召し出されて秀吉の家臣となり、徳川家康が関東へ移封となると遠江・久野城1万6千石を拝領した。娘・おりんは柳生宗矩に嫁ぎ、江戸初期の剣豪・柳生十兵衛を産んだ。
毛利勝永 もうり かつなが (1577~1615) 豊臣家
大坂城五人衆のひとり。本姓は森。秀吉の命により毛利姓を名乗るようになった。父・勝信が秀吉の黄母衣衆であったことから若くして秀吉に仕える。父に従い朝鮮出兵などで活躍するが、関ヶ原の戦いでは西軍についたため父と共に改易され、身柄は加藤清正を経て山内一豊に預けられた。父が一豊とは旧知の仲であったため、厚遇されたが、1614年、豊臣秀頼からの招きを受けたことで土佐を脱出し、大坂の陣に参加する。夏の陣では真田幸村と共に徳川家康の本陣に突撃をかけ、本多忠朝(忠勝二男)を討ち取り、小笠原秀政を負傷(のち死亡)させたが、真田隊が壊滅したため撤退した。撤退戦でも藤堂高虎、井伊直孝らの猛追を振り切る離れ業を見せるが、最後は燃える大坂城の中で秀頼を介錯して自害した。
毛利勝信 もうり かつのぶ (?~1611) 豊臣家
豊臣家臣。勝永の父。初名は吉成。早くから羽柴秀吉に仕え、黄母衣衆に抜擢された。元は森姓であったが、九州征伐での功で豊前国2郡と小倉あわせて6万石の大名となると、秀吉の命によって毛利姓に改めた。その後、文禄・慶長の役でも活躍したが、関ヶ原の戦いでは西軍に属して改易され、加藤清正を経て土佐の山内一豊に預けられた。かつて上役として一豊を世話していたこともあり厚遇されたが、大名に復帰することなく土佐で没した。
脇坂安治 わきさか やすはる (1554~1626) 豊臣家
賤ヶ岳の戦いで活躍した七本槍のひとり。最初は浅井家に仕えていたが、浅井家が滅ぶと織田家臣となり、明智光秀の与力として丹波攻略などで活躍した。後に懇願して羽柴(豊臣)秀吉の家臣となり、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦いを経て、仙石秀久改易後に後任として淡路洲本3万石を得た。九州征伐、小田原征伐、朝鮮出兵では主に水軍を率いて活躍する。関ヶ原の戦いでは東軍に与する予定だったが、石田三成の妨害によってやむなく西軍についた。しかし、徳川家康とは通じており、本戦では小早川秀秋の裏切りに乗じて東軍に寝返り大谷吉継を攻撃した。戦後、あらかじめ通じていたことが功を奏し、所領は安堵され、その後、伊予大洲5万3千5百石に加増転封となった。